山寺(立石寺) -千二百年の法燈がともる芭蕉ゆかりの山寺で歴史と文化と風情に触れる –

歴史
山寺立石寺開山堂

山寺~立石寺

「閑さや 岩にしみ入蝉の声」
今から325年前の元禄二年(1689)。
松尾芭蕉は、奥の細道の旅の途中、山寺立石寺で蝉の句を詠んだことは余りにも有名です。

宝珠山立石寺は、平安時代の貞観二年(860)清和天皇の勅願所として、
円仁(慈覚大師)によって創建されたといわれる天台宗の寺院である。
立石寺は後世になって比叡山の別寺として、あるときは、僧坊3百余り、
千四百二十石の朱印地をもった天台宗屈指の名刹です。
比叡山延暦寺は、平安の都(現在の京都)の鬼門(北東)を護るために創建されましたが
山寺立石寺も同様に国家を鎮護し、大和朝廷による東北地方の経営の拠点として
創建された寺院である。

この立石寺では3つの重要な古代の宝物を所蔵しています。
①入定窟から発見された円仁の木彫頭部
②日本三古印である古代の銅製「立石倉印」
③舞楽面と衣装

千十四段の参道石段の七合目に、開山堂がある。
その裏手には円仁の入定窟があって、昭和23年に実施された文部省の学術調査により
金箔押しの木棺と人骨、そして、円仁の肖像画とそっくりな木彫頭部が発見されました。
その木彫は作風からも9世紀頃の製作であると認められています。
木彫の後頭部は削平されいて、いわば寝姿を想定したデスマスク的な意匠が伺えます。

円仁の入定窟の上に建つ開山堂

「立石倉印」は、縦4.8cm横4.7cmの銅製の古代印である。
堂塔の建設や水利、農作物の栽培に貢献したことから清和天皇が、円仁にこの印を下賜したという。

立石倉印

日本古代三古印の「立石倉印」

この古代印はなぜ「寺印」でなく、「倉印」なのか。
「倉印」は正倉の印という意味で、米倉の出納を行っていた証拠であり、
国家と深く結びついていた様子が伺える。
これに類似する古代印では、隠岐の国府に下賜された「隠岐倉印」や「但馬倉印」がある。

立石寺の草創当時、大阪の四天王寺から舞楽が伝えられた。
江戸の古地図には、根本中堂の前に石舞台が描かれており、
明治期までこの石舞台で、舞楽が奉奏されていた。
この舞楽は、現在、紅花の里河北町の谷地八幡宮で、林家舞楽として一子相伝の秘曲として今に伝えられている。
大阪四天王寺の楽家の一員だった林家の祖、林越前政照が、
貞観二年に、天台宗の東北の拠点、立石寺を創建する際、
慈覚大師円仁に随従し舞楽を伝えたという(「林家文書」)。
根本中堂・開山堂・奥の院では、法燈が千二百年間燈し続けられているが、
その歴史を物語る宝物類は、現在、根本中堂の横にある宝物殿に展示されている。

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