「林家舞楽」千有余年の歴史に秘められた謎-山形県河北町

歴史
羅陵王

肉そばで有名な山形県河北町。
かつて、最上川の水運で栄えたべにばなの里だ。
そこに、遠くシルクロードの文化が伝わり
現在も受け継がれ残っているとは誰が想像できるであろうか。

山形県河北町では、毎年9月第3週の敬老の日前後に
「谷地どんが祭り」が行われる。
その祭りの見どころとして、谷地八幡宮境内にある
大きな石舞台の上で、林家舞楽が本殿に向かって奉奏されている。

華やかに優雅に舞う舞楽は本来宮廷儀式である。
どうして、このような格調高い舞楽が
東北の地、ここ山形の河北町に伝わり舞われているのか、
一体誰が何のために伝えたのか。
谷地林家舞楽の謎に迫ってみようと思う。

舞楽は、鮮やかな色で装飾された豪華で美しい装束から想像できるように
大陸から伝来したもので、宮廷儀式として大切に受け継がれていましたが
大阪市天王寺区にある、天台宗荒陵山四天王寺にも古くから舞楽が伝承されており、
そこには東儀家、岡家、園家、林家の四家の楽人があった。
四天王寺は、厩戸皇子(後の聖徳太子)が建立した寺である。

その四天王寺で「法華経」の講義をしていた「円仁」は
東北地方の拠点となる山寺立石寺を創建することになるのだが
その際の記録に次のような記録がある[舞楽由緒(林家所蔵)]
「貞観二年(八六〇)僧円仁に従って羽州に来た四天王寺楽人林越前が山寺の根本中堂で舞楽を舞った」
林家の祖は、円仁に従い山寺へやってきて、山寺で四天王寺舞楽を奉奏しているのである。

林家舞楽は、門外不出、一子相伝の秘曲として、
平安時代初期から1100年以上も脈々と伝えられてきた。
現在も次の十番の舞が舞い続けられている。

① 燕舞(えんぶ)
② 三台塩(さんだいえん)
③ 散手(さんしゅ)
④ 太平楽(たいへいらく)
⑤ 案摩(あま)
⑥ 二の舞(にのまい)
⑦ 還城楽(げんじょうがく)
⑧ 抜頭(ばとう)
⑨ 羅龍王(らりょうおう)
⑩ 納蘇利(なそり)

羅陵王

納蘇利

これらの舞の内容を見てみると、敵を打ち破り
霊となる天地の神を鎮める儀式であることがわかる。
敵と戦い、平定し、霊を呪力によって鎮め
国家に平和と安寧をもたらす鎮護国家の思想が
その背景にあるのだ。

山寺立石寺は、国家鎮護、怨敵降伏の道場として
勅願(天皇の命)により建てられたとされるが
さて、立石寺においてそこまでして鎮めなければならない怨霊とは
誰の怨霊だったのであろうか。

これは、700年代の後半に、大和朝廷軍と壮絶な戦いを繰り返し打ち倒された、
東北地方の先住民である蝦夷(えみし)達の霊ではなかったのか。
立石寺が建てられた頃は、東北地方において壊滅的な被害となった大地震に加え、
干ばつや冷霜害の異常気象、伝染病などの疫病にみまわれ
東北の人々は、恐ろしく苦しい思いをしている。

それらの天変地異は、文化もろとも打ち滅ぼされていった、
古代東北の蝦夷達の怨霊の仕業であると朝廷は心を砕いていた。
御霊信仰により霊を鎮める必要があったのである。

800年代に、朝廷は武力による統治から、
宗教による東北地方の統治へと政策を変える。
そして、天台宗を国家第一の宗教に指定し、
鎮護国家の思想のもとに、蝦夷地である出羽国や陸奥国で
その教線を北進させていった。

舞楽は、宮廷儀式であり、国家安寧を願う国家的儀式である。
そこで、鎮護国家の拠点である天台宗立石寺に、
舞楽が伝えられたと考えられるのだ。

その後、林家舞楽は幾多の変遷があり
現在の河北町に伝わり、舞楽の地方化したものとして顕著な特色を有するものであるものとして
世界的に注目され、1981年1月21日に山形県の重要無形民俗文化財に指定されている。

関連リンク 山寺立石寺。本堂に残る 千年の舞の面影
https://hanawafarm.com/2016/08/23/ishibutai/ ‎

谷地どんが祭り
2017年は、9月16~18日で行われる予定で
林家舞楽は、16日と17日の予定。会場は谷地八幡宮

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